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ヒカリニナル -The Prelude-

 雪。
 それはとても静かで…。
 ただ何に拒まれる事もなく、ゆっくり、ゆっくりと舞い降りてくる。
 肌を差す寒波。
 そんな中に立ち尽くし、そして思う。
 ──この雪の彼方に、どんな悲しみがあるのだろう。
 何故だか分からないけど、とても悲しいと思った。
 だから、それを確かめようとその雪を手の平に受け止めた。
 …その瞬間。


 その雪が…“光”に見えた──



「それでは先生、失礼します」
「はい。それでは、また明日」

 子供を連れ、母親が去ってゆく。
 その二つの背をただ見送っていた。
 やがて、見えなくなる。

「…はぁ」

 無意識に漏れる溜め息。
 その理由が自覚できているからこそ、その行き場がない事に憤りすら覚える。

「…藤林先生」

 不意に声を掛けられ、意識が戻される。

「…まだ、気にしているのですね」

 隣に立つのは、違うクラスを受け持つ先生。

「…はい」

 あたしは、ほとんど無意識に頷いていた。
 何の事を指して言っているのか、愚問と言えるほどに明らかだったから。

「藤林さんは…汐ちゃんのお父さんとは知り合いでしたよね」
「…はい。高校時代の友人です」
「だったら…さぞ汐ちゃんにも思い入れがあったのでしょう」
「………」

 汐ちゃん…その名は、決してあたしの頭から離れる事のない名前だった。
 ほんの少し前まで、うちのクラスにいた女の子だった。
 活発で、気さくで、年の割にちょっと大人びてて…。
 他の子とも仲良くできる、まさに“いい子”と言う言葉がぴったりの子だった。
 …だからこそ、その存在は失うと共に多くの穴を心に開けた。

 あの子は…岡崎汐ちゃんは…もう、この世にはいなかった。
 強く生きてきた。
 生まれると同時に母親を亡くし、ずっと父親から離れて過ごしてきた5年間。
 本当に、最低な父親だった。
 現実から逃げて、全てを放棄してきたのだから。
 愛でるべき娘を…放っていたのだから。
 そんな父親を、汐ちゃんはそれでも待ち続けていた。
 それは、見てて悲しくなるほどの健気さだった。
 なのに…あたしには、父親を責める事が出来なかった。
 父親であるあいつは、とても大きなものを失ったのだから。
 だからこそ、あいつが汐ちゃんを連れて来た時…あたしは本当によかった、と思えた。
 あいつにとっても、汐ちゃんにとっても…。
 お互いを支え合っている…まさしくそれは親子だった。
 母親のいない家族…それは、本当に寂しいもののはずだった。
 だけど、あいつはそれを乗り越えた。
 だからこそ、二人だけでも歩いて行けたのだと思う。
 失ったものの分まで、取り戻そうとしているのが分かった。
 そして、あたしもこの仕事でその手伝いが出来ればいいと思った。

 …それなのに。

「どうして…」
「藤林さん…?」
「この世に、本当に神様なんているの…?」
「………」
「残酷すぎる…こんなの」


 現実は、あいつから汐ちゃんさえも奪った…。



「いらっしゃいませ」

 パン屋に入った途端、いつもの店員の声が明るく響いた。

「あ、藤林先生…」

 早苗さんは、あたしを確認してよりその微笑みを際立たせてくれた。

「いえ…杏でいいですよ。もう、汐ちゃんの先生じゃなくなってしまいましたから」

 それだけを呟き、トレイを手に取る。

「あ、今日はお買い物ですか?」
「はい。たまにはパンも食べたくなるんです」

 冗談めかして答えた。

「たまにと言わず、これからも買いに来て下さいね」

 早苗さんも冗談めかして返す。

「あはは…ごめんなさい。いつも冷やかしばっかりで…」
「いいんですよ。お話だけでも楽しいですから」

 全く相手を不安にさせない。それが、この人の人柄だった。

「…早苗さん」
「はい?」
「ついでに、汐ちゃんに線香をあげたいのですが…構いませんか?」

 躊躇して聞くと、早苗さんはすぐに…

「はい、ぜひとも」

 と返してくれた。


 手を合わせ、故人の冥福を祈った。
 汐ちゃんと、その母親である渚──。
 …二つの大切な命を失った家。
 それが一体、どれほどの絶望なのか。考えたくもなかった。
 …それを、俗には逃げていると言うのだろうか。
 でも、あたしには正直、この家の持つ悲しみを負う自信がなかった。

「お茶、入りましたよ」

 後ろから声が掛かる。

「済みません。いただきます」

 早苗さんと二人でテーブルを囲う形となる。

「…思い出しますね」
「…え?」
「7年前の卒業式です。あの子一人だけの…卒業式です」

 あの子…渚のことだった。

「杏さんも来てくれていましたよね?」
「…はい」
「あの時の事…今でもたまに思い出すんです。本当に、大切な思い出です。
 …朋也さんが、渚のために作ってくれた思い出です」
「……っ」

 朋也…。その名を聞いて、落ち着かない自分がいた。
 朋也と渚…汐ちゃんの両親の名前。
 高校時代を共にした大切な仲間。
 時は流れ…いつの間にかそれは、何もかもを変えてしまっていた。
 街も、人も。
 渚はこの世の人じゃなくなり、朋也もそれによって、腑抜けのようになってしまっていた。
 やがて朋也が本当に“父親”となってあたしの前に現れたあの日…。
 汐ちゃんの存在と共に、時の流れを感じた。
 ろくでもなくぶらぶらしていた高校時代。
 それが、確かな父親となって存在していた。

「…早苗さん」

 口を開く。

「はい。なんでしょうか?」

「…朋也は、今も目覚めていないんですか?」
「………」

 一瞬、早苗さんがあたしの質問にきょとんとする。

「…はい」

 やがて力なく答える。

「………」

 朋也は、雪の日に汐ちゃんと共に発見された。
 二人とも意識がなく、急いで病院に運ばれた。
 しかし、まもなく汐ちゃんの死が確認され…
 朋也も、あの日からずっと目を覚ましていなかった。
 あの雪の日から今日まで、一度も…。
 それはまるで、肉体だけをおいて、意識だけがどこかに行ってしまったようだった。
 自らの時を止めたまま…朋也は今も、病院の一室で眠っている。

「…つらかったんでしょうか」
「えっ…?」
「愛する人を立て続けに失って、朋也は現実を受け入れられなかったんじゃ…
 そう思う事があるんです」
「…そうなのかも…知れませんね」
「………」
「こんな事を言うと、朋也さんに失礼かもしれませんが…。
 朋也さんは、弱い人です」
「………」
「何かが起こった時、誰かが側にいてあげないとだめなんです。
 朋也さんにとっては、渚がその存在でした。
 渚が汐を身ごもって、渚自身の体調も優れなくて…。
 残酷な選択に迫られた時…朋也さんは、とても恐れていたんです。
 渚を失いたくない…って。
 …実際、失ってしまったんです」
「………」
「その後は、以前お話したとおりです。
 でも、時間は掛かりましたが…朋也さんは立ち直ってくれました。
 まだ、朋也さんには汐が残されていたのですから。
 朋也さんと渚が、ずっと支えあってきた証ですから」

 そう。
 汐ちゃんは、朋也の生きがいそのものとなったのだった。
 汐ちゃんのために生きてきたんだ。
 自分の全ては汐ちゃんのためで、そのためにならどんな苦しい事でも耐えられる。
 そんな存在だった。
 …だけど。

「今の朋也には、そんな存在すらいないから…」
「…そうですね。
 渚や汐の代わりは、わたしにも演じられません。
 本当に…つらいと思います」
「だったら、早苗さんは…
 早苗さんは、どうなんですか…?」
「…わたしには、秋生さんがいますから」
「………」
「心配しなくても、強がりではありませんよ。
 泣きたいほどに悲しくて、苦しくて、つらいとき…。
 そんな時に、いつも側にいてくれるのが秋生さんなんです。
 だから…耐えられるんです」
「…あたしには、そうとは思えません」
「………」
「早苗さんが失ったものは…あまりに大きすぎたはずです。
 それこそ、何にも代えられない存在のはずです」
「…はい。
 でも、秋生さんがわたしにとって大きな支えとなってくれているのは事実です。
 それに…まだ、朋也さんがいますから」
「………」
「わたしはまだ信じています。朋也さんは、きっと帰って来てくれると。
 でも…本当は、朋也さんが目覚めてしまうのが少し怖いんです」
「えっ…?」
「朋也さんが目覚めた時…わたしは何と声を掛ければいいのか…。
 汐がいないと言う事実を、そのままぶつけるのか…」
「………」
「その時に、朋也さんは一体どう思うのか…。
 考えると…とてもつらいです」



 もう、幸せな家族の残り香はどこにもなかった。
 朋也と汐ちゃんが住んでいたアパートも、今は無人だった。
 時々早苗さんが訪れては掃除していると言う。
 それを手伝った事もあった。
 その後は決まって…あたしたちは病院を訪れた。
 そして、物言わぬ朋也を前に、現実を突きつけられるのだった。
 ベッドに眠ったまま、何の反応も起こさない朋也。
 不気味なほどに、病状に変化はなかった。
 それに安堵と絶望を共に覚える。
 その繰り返しだった。
 そして、それはその病院で働くあの子も同様だった。

「岡崎くんは、きっとまた起きてくれるから…」

 あたしが来るたび、椋はそう繰り返すのだった。
 それは、自分に言い聞かせているようにも思えた。
 その姿が…ふとあの日とかぶる。
 大切な存在を失う事に抗い続けた椋。
 結局失ってしまったあの日。

 今でも、思い出すとあまりにつらい記憶だった。



「あの子、また来てるわよ」

 全ての子供たちを送った後、門の方を見ながら同僚の先生が話しかけてきた。
 その視線の先。
 何かを待つように、ぼーっと突っ立っている少女が見えた。
 …いや、見掛けは少女だが、実はあたしと同い年だったりする。

「…はぁ」

 その姿を見ると、少しばかり憂鬱になってしまう自分がいる。
 仕方なしに、その姿に近づいてゆく。

「…あんた、何やってんの?」

 声を掛ける。

「あ…」

 その目があたしを捕らえ、そして緊張を解く。
 この子とは既に顔なじみだった。

「何度も言ってるけどね…汐ちゃんは…ここにいないのよ」

 子供に言い聞かせるように、いつもの言葉を繰り返す。
 その度に、自分でその言葉に翳りを感じた。

「風子は覚えています。確かに汐ちゃんはここにいました」
「いや、確かにいたけどね…」

 相変わらず捕らえどころがなかった。

「…まぁ、あたしも未だに信じられないんだけどね。あまりに突然で」

 本当に突然だった。
 高熱で休んだのだって、前兆と呼ぶにはあまりに小さなものだと思う。

「…どこにいるんですか?」
「………」

 この子は、何も知らないんだ。
 汐ちゃんの事も、何もかも…。

「あたしも…何も知らないのよ…。
 汐ちゃんに何があったかすらもよく分からないし…。
 何だか唐突に、絵空事の中に放り込まれたような気分よ…」

 自分の声が、妙に虚しく響いた気がした。
 取り乱してしまえば楽になれたかもしれない。
 そうしなかったのは、意地だった。
 あの親子を奪った、運命に対する意地だった…。

「…よく、意味が分かりません。
 汐ちゃんは、ここにはいないんですか?」
「いないわよ…」
「では、どちらに?」
「………」

 言ってしまっていいのだろうか…?
 汐ちゃんは、もうこの世にいないんだって…。
 今まで、この純粋な表情にあたしは口を噤んできた。
 真実を告げる事も出来ず…ただ、『いない』としか言えなかったのだ。
 言うしかないのだろうか…。

「…ふぅちゃん?」

 突然、声が聞こえた。

「あっ…」

 途端に風子の表情が焦りに変わる。

「もう…あれほど遠くに行っちゃだめって言ったのに」

 風子の姉…公子さんが走ってきた。

「子供扱いしないでください」
「人の言う事も守れない子が文句言わないの」
「なかなか厳しいです…」

 反論したくとも言葉が出ない、と言った様子だった。

「ごめんなさい、藤林さん。またご迷惑をお掛けして…」
「い、いえ…全然そんな事ありませんよ」

 恐縮しながら答える。

「いいんですよ。私にも色々と責任がありますから」
「はぁ…」

 何か意味深な言葉に思えた。

「ほら、ふぅちゃん。そろそろ戻りましょう」

 子供をあやすように言う。

「んーっ…仕方ないです…。
 今日はこれで帰ります。でも、次回こそはこうはいきません」
「またこの子は訳の分からない事言って…」

 本当に微笑ましかった。

「それでは、藤林さん」

 あたしの笑みに気付いたらしく、公子さんが気恥ずかしそうに挨拶してくれる。

「はい。お気をつけて」
「はい。さあ、ふぅちゃん」
「はい、行きましょう」

 仲良く去ってゆく影二つ。
 相変わらずな姉妹だった。

「…さて、と」

 残りの仕事の為、あたしは幼稚園に戻った。
 ………。

 いつの間にか心が晴れている自分に気付いた。



 後日。
 あたしは、商店街を歩いていた。
 この辺りも昔からよく来る場所だった。
 休日はたまにここでウィンドウショッピングをしたりする。
 今日はそう言うつもりじゃなかったけど、ただ家でじっとしているのも嫌だった。
 とは言え、どこに行こうか…。
 そんな事を考えていると、前方によく見慣れた人影を発見した。

「あれ? お姉ちゃん」
「あら、椋じゃない。あんたも買い物?」
「うん。食材の買出し」
「へぇ…ちゃんとやってるのね、そう言う事」
「え?」
「料理よ、料理。一人暮らしを始める前に、必死に練習してたじゃない」
「うん。大分出来るようになったよ」
「へぇ〜。努力してるのね」
「努力もあるけど、やっぱり覚え始めると結構楽しいし…」
「そう思えるだけでも立派なものじゃない。昔は全くダメだったのに」
「そ、そうだね…」

 思い出し、苦笑する。

「仕事の方は順調なの?」
「うん。新しい場所にも慣れたし…」
「こっちの病院に移ってから、まだ一年だったっけ?」
「うん。まだ、人材が必要だったみたいだからね」
「しかし、前まではこの町にあんな大きい病院が建つなんて思わなかったわよねぇ」
「そうだね。やっぱり隣町まで行くのは大変だからね」
「色々便利になっていくわね…」

 その度に、町の姿は変わってしまうけど…。

「あっ、それよりお姉ちゃん、これから予定ある?」
「え? ううん、別にないけど…」
「じゃあ、一緒に買い物しようよ。久し振りに」
「え? う、うん…別にいいけど…」
「うん。行こ」

 そして、しばらく椋と一緒に商店街を歩き回った。
 こうして椋と歩くのも、かなり久し振りだった。
 食料の買出しは後回しにして、洋服店やアクセサリーショップなどを回った。

 そうして思い出す。昔の自分たちを。
 生まれた時から一緒だった二人。
 何をするのだって一緒で、周りからも仲のいい姉妹だと評判だった。
 こうして二人で買い物をするのも、日常の一部だった。
 そんな日々が、再び帰ってきたかのような錯覚。
 それは椋も同じようで、あの日々のように揚々としていた。
 だけど…。

 あたしからも椋からも、朋也の話だけはする事がなかった…。


 椋と別れる頃には、既に夕方だった。
 古河パンで買い物を済ませ、外に出ると、公園にて見知った人物を見つけた。
 声を掛けると、向こうもあたしに気付いてくれた。

「こんにちは、藤林さん」
「どうしたんですか、公子さん? 今日は、風子と一緒じゃないんですか?」
「ええ。ちょっと散歩ついでに子供たちを眺めていたんです」

 公子さんの視線の先では、小さな子供たちが無邪気に遊んでいた。
 よく見られた光景だった。

「あの子達も、やがてはこの町の未来を担う存在になるのでしょうね」
「はい、そうですね」
「はしゃいで、小さいなりに頑張って、そして大人になって…。
 やがて親となって、その志を次の世代へ受け渡す…。
 それが、私たちの自然な姿なのですね…」
「………」

 …公子さんも、感じているのだろうか。
 変わり行く町の姿。そこから消えていく形を。

「分かってはいるのですが…変わる事はいい事ばかりとは言い切れません。
 …あの子の事も」
「……っ」
「…まだ、言えずにいるのです、私は。
 汐ちゃんが、どこにもいないって言う事を…。
 もう、二度と私たちの前に現れないと言う事を…」
「………」
「本当は、ふぅちゃんも感じているのだと思います。
 でも、認められないんですよ。
 ふぅちゃん…本当にあの子の事、気に入ってるから…。
 私は、無理に現実を見る必要はないと思っています。
 だから、今日まで黙ってきました。
 だけど、あの純粋な表情を見る度に…心に何かが突き刺さる思いがするのです。
 …結局、私が嘘を付いているのは事実ですから。
 もう…潮時なのかもしれませんね」
「…公子さん」
「はい、何でしょう?」
「確かに風子も、それを知ったらつらいと思います。
 あたしも公子さんも…こんなにつらいのですから」
「…はい」
「…でも。
 それとは比べ物にならないくらいに、つらい思いをした人がいるはずなんです」
「…そうですね。いるはずですよね」
「………」
「…でも、今はつらいとすら思えない状態なんですよね。
 つらくて、悲しくて、痛くて…。
 そして、それを受け止めてくれる存在もいなくて…。
 だから…自ら、何も感じられなくしてしまったと…そんな気がします」
「でも…そんなの間違っていると思います…。
 いくらつらいからって…」
「でも、それが人間と言う生き物の弱さなのですよ」
「それはそうでしょうけど…」
「藤林さんの気持ちも分かります。
 岡崎さんとは、高校時代の友人でしたよね」
「…はい」
「だったら、信じて待ってあげましょう」
「………」
「信じれば、きっとまた会えますよ」

 慰めるように、そう言ってくれた。

「…はい」

 自分の返事に覇気が感じられない。
 でも…
 朋也は独りじゃない…。
 古河の両親もいるし、それに…

「また会えた時には…藤林さんも力になってあげて下さいね」
「………」

 そう、あたしだって…
 あたしだって、つらいのなら力になってあげたい。
 だから…逃げないで、朋也…。



 今日も無事に終業を迎えた。
 ここのところは日が暮れるのも遅く、この時間でもまだ明るい。
 バイクを押して出ようとすると、入り口の脇に一台の車が止まっていた。

「ちょっと…あれじゃあ他の人の邪魔になるじゃない…」

 別にぴったり門を塞いでいる訳じゃないけど、出る時に視界の邪魔になりそうだった。
 ここは注意しておくべきだと思った。
 あたしは車に近づいていく。
 その時…

「あっ…」
「え…?」

 反対の道からポリタンクを持った一人の青年が現れ、あたしの姿を見て声を上げる。

「この車、あんたの?」
「え、ええ、まぁ…。もしかして、ここの幼稚園の方ですか?」
「そうだけど…」

 答えると、青年はばつが悪そうに苦笑した。

「はは…やっぱり邪魔ですよね、ここ」
「分かってたんなら停めないでよ…」
「そうなんだけど…ちょうどここでガス欠起こしちゃって…」
「………」
「い、いや、ガソリンがないのに気付かずに走ってた事には言い訳しないです…」

 妙な笑顔を絶やさない。つかみどころのない青年だった。

「はぁ…別にいいわよ。早く給油してくれる?」
「あ、うん…」

 青年が車のドアを開けた時…

「まったく…」

 助手席から声。
 声の主が、車から出てくる。

「だから言っただろう。さっきの通りで給油しておけばよかったんだ」

 出てくるや否や、女性が青年を攻め立てる。

「うっ…そうだけど…」
「まぁ、今更だが…。
 申し訳ない。迷惑を掛けた」
「………」
「…なにか?」
「あんた…坂上智代じゃない…」
「…え?」

 女性…智代は、あたしの顔をじっと見る。

「ああ、確か藤林…姉の方か」
「杏よ…」
「そ、そうだったな…。
 そうか、ここで働いていたのだな」
「あんたはどうなのよ。あの後すぐ町を出て行ったようだけど」
「ああ。他の町へ進学したんだ。今はその町で働いている。
 今日は久しぶりの帰省と言ったところだな」
「こんな時期に帰省?」
「正月にもろくに帰る事が出来なくてな…ようやく、その埋め合わせが来たってところだな」
「そうなの? 結構忙しいのね」
「ああ。でも、充実しているぞ」
「ふ〜ん。で、この子は彼氏? それとももう旦那?」

 青年を指して訊く。

「そんな殊勝なものじゃない…。弟だ」
「あんた、弟なんかいたの?」
「ああ、こう見えても正真正銘、私の弟だ」
「そうなの?」

 青年に問う。

「うん。僕は坂上鷹文」

 …名前までは訊いていない。

「それにしてもあの卒業式以来か。懐かしいな」
「そうね。元気そうで何よりだわ」
「そちらこそな」
「そう? まあ、体力的にはまだまだ元気だけどね」
「精神的には元気じゃないのか…?」
「あははっ、何言ってんのよ。大丈夫よ」

 本気で心配されたので、慌てて取り繕う。

「ならいいんだが…」

 純粋な子だった。

「しかし、これだけ時が流れたら、色々と変わってしまった事もあるだろう」
「そうね…」
「あの二人も、あの後すぐ結婚したと聞いたが…元気にしているか?」
「……え?」
「え? じゃない。岡崎と古河の事だ」

 …やはり、避けられない話題なんだと思った。

「…って、結婚してるからどっちも岡崎になるのか。紛らわしいな」
「………」
「…どうした?」

 …一瞬、嘘をつこうかと思った。
 わざわざ彼女を暗澹な気持ちにさせる事はない。
 でも…

「…元気じゃないわよ」
「……え?」

 あたしは、事実を話していた。

「渚は6年前に死んだし、朋也も今、入院しているわ…」
「……っ!
 本当…なのか?」
「…本当よ」
「一体、何があったんだ…?」
「朋也の方は、あたしにもよく分からない…。
 去年の冬から意識がなくて、今でも目覚めていない…」
「古河…渚の方は…?」
「あの卒業式の後、二人の間に子供が出来たんだけど、渚って体が弱かったじゃない。
 …耐えきれなかったのよ」
「そうだったのか…。
 いい奴だったのに…本当に残念だ」
「…ええ」
「子供は…どうなったんだ?」
「…子供は無事生まれたわ。
 汐ちゃんって言う女の子。とても可愛い子だった。
 でもね…きっと渚の病気を受け継いでしまったんじゃないかしら…」
「………」
「去年の秋頃に発熱して、そのまま…」
「言わないでくれ…。あまりに悲しすぎる話だ…」
「あたしだって言いたくないわよ…」

 気まずい空気に包まれる。

「…何だか、色々あるみたいだね、二人とも…」
「おまえ、まだいたのか?」
「あんた、まだいたの?」
「せっかく心配してるのに、その反応はないでしょ…」

 がくりとうなだれる。

「はは…冗談だ。悪い、深刻な話になった」
「いや、もういいけどさ…」
「しかし…私のいない間に、それだけの事があったとはな…。
 やはり…何もかも、変わらずにはいられないのだな…」

 まったく、言うとおりだと思った。
 ふと、公子さんの言葉が脳裏を過ぎる。

『分かってはいるのですが…変わる事はいい事ばかりとは言い切れません』

 町は変わっていく。
 より多くの人が住みやすい場所を求め、変わっていく。
 だけど…。
 せめて、自分が大切に思うものは残っていて欲しい…そう思うのは単なるエゴだろうか…?
 自分にとって大切なものが、他人にとっては邪魔になる事だってある。
 自分にとっていらないものが、他人にとっては必要な事だってある。

 …でも。

「この町に…あの家族はいらないって言うの…?」
「…え?」
「変わる事は仕方ないけど…朋也も、渚も、汐ちゃんも…奪っていく必要なんてないじゃない…」
「…言う通りだ」
「………」
「でも、どうする事も出来ないだろう」
「…ええ」
「朋也は意識がないって言ってたな。それは、子供が亡くなった事と関係あるのか…?」
「…多分ね」
「そうか…。
 それは、あまりにつらかったのだろうな…」
「………」


 それから、智代を連れて病院に行った。
 本人からの強い希望だった。
 そして、その姿を目の当たりにして…
 彼女は、ただ呆然としていた。
 智代があんなに戸惑うなんて、あたしには想像もできなかった。
 そして、物言わぬ朋也に色々話しかけていた。
 中身のない、世間話のような内容だった。
 とても、皮肉な再会だった。

 いつかは、こんな日々も終わる日が来るのだろうか。
 それは、どんな形で来ると言うのだろうか。
 そんな不安ばかりが募っていた。
 ただ、怯えるようにして時の流れに身を任せるしかない自分がもどかしく、そして悲しい。
 …でも、その日々の中にも光があった。
 同じ思いを共有できる人たちの存在だった。
 みんながみんな、優しかった。
 その温もりに、今だけはただ甘えていたかった。
 いつか、変化と言うものが訪れるその日まで…。



 そして今日もまた、あたしは朋也の病室を訪れていた。

「朋也…」

 ベッドの脇に椅子を置き、座る。

「…ったく、いつまで寝てんのよ。
 そんなに寝てたら、バカになっちゃうわよ。
 あ、元々か」

 聞こえないのをいい事に悪態をつく。
 でも、その度に期待してしまう自分がいる。
 あたしの悪態に、いきなり朋也が起き上がって文句を言ってきて…
 そして、互いにバカな事を言い合う。
 そんな妄想が、目の前の現実によって飛散される。
 朋也は、今日も目覚めない。

「こんな美人が見舞いに来てあげてると言うのに…」

 頼まれてもないけど。

「あれ? お姉ちゃん、来てたんだ」

 振り向くと、椋が病室の扉を開いていた。
 ノックの音が聞こえなかったのだろうか…。

「うん。もしかして邪魔?」
「あ、大丈夫。お客さんを案内してきただけだから」
「お客さん?」
「うん」
「おう、汐の先生じゃねぇか」

 渚の父親…秋生さんが、椋の後ろから姿を現した。
 立ち上がり、一礼する。

「では、ごゆっくりと。
 あと、病院内は禁煙ですので」

 そう言い残し、椋は病室を出て行った。

「なるほど、あの子はあんたの妹か」
「ええ」
「かっ…本当によく寝てやがるなぁ、おい。
 このままじゃ目どころか、脳みそまで腐っちまうんじゃねぇのか?」

 …似たような発想だった。

「んで、お姉さんよ。本当にこいつはこの調子なのか?
 本当は時たま起きて、『秋生っちには内緒にしといて〜』とか言ってんじゃねぇのか?」
「本当に起きたとしても、それはきっと言わないと思うけど…」
「ちっ…本当に寝てばっかかよ。
 これじゃあ、文句の一つも言えねぇじゃねぇかよ。
 せっかく俺様自ら赴いてやったってのによ」
「…もしかして、初めて見舞いに来たんですか?」
「ああ。ちょっと、来たくねぇ事情があったんだ。この病院はな」
「え…?」
「…息が詰まるな、ここは。表へ出ねぇか。
 まぁ、あんまり人に話すような事じゃないし、興味がないならいいけどな…」
「………」


「ここが元々空き地だったってのはあんたも知ってるだろ。
 かつては公園みてぇに、自然で溢れた場所だった」
「…ええ」

 よく知っている場所だった。
 かつて、あたしがボタンを拾った場所だ。

「…ここに病院が建つって聞いた時はよ、正直冗談じゃねぇって思った。
 別に、自然を守りたいとか、そんな理由じゃない」

 そこまで話し、タバコに火をつける。
 ふぅーっと煙を吐き、何やら真剣な表情で景色を眺めていた。

「ただな、この場所は特別だったんだ。
 他の場所がみんな消えちまっても、ここだけは消えて欲しくなかったんだ。
 だから、無茶をしたんだ」
「………」
「そしたら、朋也に殴られた。
 早苗に心配かけるなってよ。
 …けどよ、不思議と腹は立たなかった。
 当然だ。俺一人だけがわがままだったんだからよ。
 けど…だったらてめぇは何だって話だ。
 母親はいない、父親は自分の方を向いてくれない。
 その孤独もわからねぇてめぇだ。
 ま、責める気はねぇけどよ。俺だってかつてはそうだったんだ。
 渚があんな事になるまではよ」
「あんな事…?」
「ああ。悲しい事件だ。聞きてぇか?」
「いえ、話したくないならいいですけど…」
「馬鹿。そんな気遣いされるような歳じゃねぇよ」
「………」

 …そして、あたしは古河家の過去を聞いた。
 お互いに譲れない夢があった事。
 そのせいで、渚が一人ぼっちだった事。
 そして…渚が倒れた事。
 気付いた時には既に手遅れで…。
 気付けば、渚を抱えてこの場所まで走って来ていた。
 そして…この場所で、奇跡が起こった。
 それ以来、二人はずっと渚のために日々を捧げてきた。
 それは、二人の夢が一つの命に託された証明だった。
 渚が、未熟だった親の夢となった証明。

「だから…この場所を守ろうと…?」
「守れるとは思っていなかったさ。ただ、抗っただけだ。
 …もしかしたら、あいつも同じ事をしようとしたのかも知れねぇな。
 かつて渚を救ってくれたこの場所に、汐を連れて来ようとしていた…。
 そんな気もする。ま、憶測だけどよ。
 でもよ、結局ここに運ばれても救えなかったんだ。
 もうここは、渚を救った場所とは違うんだ。
 …ったく、時の流れってのは残酷なもんだよ」
「………」
「信じらんねぇか? この話」
「…どうして」

 答える代わりに、疑問をぶつける。

「あたしに、そんな話をするんですか?」
「そうだな…特に深い理由はねぇ。ただ…」

 背中を向け、長い息を白い煙と共に吐く。

「……あんたからも、あいつへの強い思いを感じたからかもな」
「………」
「まぁ、この病院が多くの命を救ってくれりゃ、俺も文句はねぇよ。
 そして、この町を笑顔で埋め尽くしてくれればな」
「………」
「あんたもよ、しけたツラばっかしてたんじゃ、いいものもいい方向に動かなくなるぜ。
 ま、こんなオッサンに言われても説得力ないだろうがな。
 って、誰がオッサンだっ」

 誰も何も言っていない。

「ま、冗談はここらへんにしといてだ。
 あいつは俺の家族だ。あいつの事でなんかあったら、遠慮なく頼ってこい。
 俺と早苗で、全力サポートかましてやるからよ」
「……はい」
「よし。じゃ、俺は帰るぜ」
「えっ…」
「あいつの側にいてくれる奴はいくらでもいる。俺様がわざわざ来るまでもねぇよ」

 それは、やはりこの場所へ来る事に対しての苦痛を示していた。
 それに、あたしのような存在がいる事に安堵してくれた、と言うのもあるのだと思う。

「じゃあな。時間割らせて悪かったな」

タバコを地面に放り捨て、それを踏み消して立ち去ってゆく。

「………」

 その背を見送り、あたしは病室へと戻った。


 朋也の寝顔を見ながら、さっきの話を反芻していた。
 この場所が…かつて渚を救った。
 にわかに信じがたい話であったけれど…何故か信憑性を感じた。
 かつて空き地だったこの地は、本当にそんな力を持っていたような…そんな、雰囲気を感じさせた。
 それが、この病院によって奪われたのだろうか。

「…朋也」

 渚を救ったこの地で、朋也は眠っている。
 渚と同様、朋也も救ってくれるのだろうか。
 それとも…
 もうこの場所は、そんな力を失ってしまったのだろうか。
 町が変われば…その分、この家族から幸せは消えてゆくのだろうか…。

「…どうして、こんな事になっちゃったのかな…。
 何が、渚と汐ちゃんを奪っていったのかな…」

 不意に、何かが胸を打った。
 あの悲しい日以来の涙が、頬を伝ってこぼれた。
 悲しみ、悔しさ、つらさ、痛み…何なのか分からない。
 ただ、こうして朋也を見ていると、その報われない思いが見えてくるようで、痛々しかった。
 いっそ、ぶつけてくれたらいいのに。
 そうすれば、痛みを分け合う事が出来るのに…。



 恐らく、もう早苗さんは帰ってしまった後だろう。
 だけど、あたしはここに来ていた。
 小さな家族が、ささやかな生活をしていた場所。

「………」

 これと言った用事はない。だけど、ここに来ると思い出す事ができる。
 かつてあった、家族の温もりを。
 もちろん、二人がここに住んでいる間に来た事は一度もない。
 でも、早苗さんの話を聞いていると、そのカタチがありありと浮かんできたのだった。
 父と娘、束の間の温もりに溢れた日々が。
 …でも。
 あたしは踵を返す。
 結局、あたしは他人だから…。
 その温もりは、朋也のためのものだから…。
 朋也が苦しんでいる中で、その温もりを横取りするなんて出来ない。

「……?」

 帰り際、朋也の部屋の前に人影が見えた。
 後ろ姿だったけれど…その姿は、よく知っているものだった。

「…どうして、こんな所にいるのよ…」

 考える前に、足が動いていた。
 その姿の元へと。
 向こうはあたしに気付かない。
 ただ呆然と、目の前の扉を見つめていた。

「………」

 その様子に、少しためらいを覚えた。
 意を決して、その名を呼んだ。

「……陽平…」
「ん…?」

 懐かしい顔が、こちらを向く。

「…杏?」
「あんた、どうしてこんな所にいるのよ?」
「…いや」

 せっかくの再会なのに、歯切れが悪い。

「久し振りだな。渚ちゃんの卒業式以来か」
「ええ。そうね」
「なぁ…何があったんだ?」
「………」
「5、6年前までは、ここにバカみたいに仲のいい夫婦が住んでたよな?」
「…ええ。…でも、今は見ての通りよ」
「僕のいない間に、そこまでこの町は変わってたの?」
「…そうよ」
「…あのさ…正直、自分でもよく分からないんだ。
 どうして、自分がこんな所にいるのかね。
 ただ…確かめずには、いられなくてね」
「………」
「嘘だよな?
 悪い冗談…だよな? 杏…」
「………」

 陽平は、汐ちゃんが生まれる前に一度訪れて以来、ここに来る事はおろか、朋也と連絡すら取れない日々を送っていた。
 それだけに、仕事に追われていた。
 最近になって、久し振りに朋也の部屋に電話をかけたが、連絡はつかなかった。
 何度かけても繋がらなかった。
 そして数日前…ようやくその電話を早苗さんが受けたのだった。
 そこで事情を知ったと言う。
 そうしたらいてもたってもいられなくて、この町まで来たと言う。

 あたしは、陽平に詳しい事情を説明した。
 渚の死から、今日までの事を。
 いくら説明しても、足らないくらいだった。
 陽平は、ただ黙って話を聞いているだけだった。
 昔は何かと口を挟みたがる癖があったけれど、そのような素振りもなかった。
 一通り話し終えると、陽平は黙ったままで息をついた。
 しばらく悩むように遠くを見つめる。
 それは、知らぬうちに変わっていったものへの戸惑いだと思った。
 沈黙が気まずくて、何か話を振ろうと思った時、ようやく陽平が口を開いた。

「…正直、嫌な予感がしていたんだ」

 静かに、言葉を紡ぐ。

「渚ちゃんの身体が弱い事も知ってたし、あれから何の連絡もなかった。
 いや、もちろん単に忙しいだけって可能性もあるけどさ…。
 何だか虫の報せって言うの? とにかく何か落ち着かなくてさ。
 でも、次第にこっちも忙しくなって、それどころじゃなくなってた。
 気付けば、あっという間に時間だけ過ぎてたよ。
 それこそ、周りの変化にさえ気付かないほどに…ね」
「あんたの方は…どうなのよ」
「え?」
「時間が過ぎたってことは、あんたの方も、色々変わったんでしょ?」
「…そうだな。変わったよ。色々と」
「へぇ〜…」
「ぜんっぜん信用してないですよね」
「変わるなんて言葉、あんたには似合わないしね」
「いいよ。高校時代があれだったしね」
「ふ〜ん。自覚はあるのね」
「馬鹿やってなきゃやってられなかったんだよ。あの時の僕は」
「…今は違うのね。その様子だと」
「まぁね。働き出したら嫌でも変わるよ。
 まぁもちろん、始めはキツかったけどね。
 慣れてくると、案外できるものなんだよね。
 それに、やっぱり心構えも変わってくるんだ。
 単に生きるために働いてるんじゃなくて、仲間たちと共に切磋琢磨する事の楽しさ…。
 もちろん、色んな付き合いとかもあるしね。
 本当、変わっていくものだよ、我ながら」
「………」
「でも、僕以上に変わっていく奴がいた。
 それが、あいつだよ。
 ちょっと前まで一緒に馬鹿やってた奴が、人の親になるって言うんだぞ?
 正直、複雑極まりなかったね。
 …でもさ、やっぱりあいつはあいつだった。
 あいつは確かに僕が知っているあいつで、それ以上でもそれ以下でもない。
 それを悟ったらなんだか安心しちゃってさ。
 遠くに行くと思ってたあいつだけど、別にそう言う訳じゃないんだってね。
 ただ、少しばかりあいつが成長するだけ…。
 それだけの事だよ」
「………」
「でもさ、やっぱり僕には分からなかったよ。
 自分が父親になるってのが、どんな感覚なのかね。
 何だか、とんでもない事のような気がしてた」

 そこで一旦言葉を切る。
 一呼吸置いた後。

「…爆弾発言してもいいかな?」
「……え?」

 突然、意味不明な事を言い出す陽平。

「だから、爆弾発言してもいいかな?」
「…別に聞きたくもないから言わなくていいわ」
「あ、そう…」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「本当は聞きたいでしょ?」
「別に」
「あ、そう…」
「………」
「………」
「………」
「僕が悪かったです、聞いて下さい」
「言いたいんなら始めから言いなさいよ…」

 こう言うところは相変わらずだった。

「…で、父親になる事がとんでもないような気がしてたから何なの?」
「うん…僕はその時そう思っていたんだけど…今は違うんだ」
「どうして…?」

 それは訊くまでもない事なのだと思う。
 だけど、確かめたかった。
 今ここにいる旧友が、どのような存在となってここへ来たのかを…。

「うん…僕さ…あいつと同じ、父親になったからさ」
「…そう…」
「反応薄いっすね」
「こういう時って、かえってリアクションできないものなのよ」
「まぁ、そうかも知れないけどさ…。
 取り敢えず、そう言う訳で他人事じゃなくなったんだ。
 今なら分かる気がするんだ。あの時の、あいつの気持ちが。
 本当、なんて事ないよね…。
 ま、自覚がないだけなのかも知れないけどね。
 きっと、これからは過酷な日々が始まると思うんだ。
 泣き言を言いたくても言えない。もう守られるんじゃなくて、守る側である事…。
 考えると少し憂鬱になるけど、それ以上に希望があるんだ。
 これからの日々に対する、大きな希望が…」
「そう…」
「うん…」
「………」

 なんだろう、この感覚は…。
 胸の奥が熱くなるような、そんな感覚。

「…陽平」
「…ん?」
「…おめでとう」
「…ありがとう、杏」
「立派な父親になりなさいよ。
 例え、これから先に、どんなに辛い事が待っていたとしても…」
「ああ。任せとけって」

 昔のようなお調子者の表情で…でも、確かな決意の表情で頷いた。

「あはは…。
 参ったわね…。まさか、あんたにまで先を越されちゃうなんて」
「はは…実は、自分でもそう思うんだ。
 あまりに滑稽だった自分が社会に放り込まれて、その中で色々あった。
 いろんな奴らと出会って、いろんな思いを共有してきた。
 ただ…その中に、僕にとって特別な存在があった。
 それだけだったんだけどね…。
 本当、人間っていつどうなるか分からないよ」
「それだけだったって…それだけで父親になんてなれないでしょ。
 その特別な存在が、あんたの事も特別な存在としていてくれて…。
 そして、互いの間でいろんな思いを築き合って…。
 本当、それこそ色々あったんでしょ? あんたの方も…。
 あたしなんて、比較にならないくらいに…」
「杏……」
「…まぁ、できちゃったって言うんなら話は別だけど」
「僕の大切なエピソードをぶち壊しにしないでくれますか。
 ちゃんと結婚もしてるよ」
「なら、それでよし。
 いっぱい幸せになりなさいよ。今まで以上にね」
「ああ。分かった」
「うん…」
「そうか…春原も結婚していたのだな」
「えっ…」
「わっ…」

 不意に後方から声。

「なんだ、二人して…」

 …智代が何事もなかったかのように立っていた。

「智代…」
「久し振りだな、春原」
「ああ…。久し振り」
「なに立ち聞きしてるのよ…」
「いや、そのつもりはなかったんだが、声を掛けるタイミングを失ってな…」
「はぁ…。で、散歩でもしてたの?」
「いや、買い物帰りだ。そうしたら、見覚えのある顔が二つもあったからな」
「買い物帰りって事は、今ここに住んでんの?」
「帰省らしいわよ」

 代わりに答える。

「そう言う事だ。今週中には戻らなければならないのだがな」
「今週中って…あと一週間も休むの? あんた」
「それだけ忙しかったと解釈してくれ…」
「………」
「………」
「………」

 三人とも互いに顔を合わせ、ため息をつく。

「…まあそれはいいとして、随分と懐かしい顔が集まったな」
「あんたが後から来ただけでしょ…」
「まあまあ。細かい事はいいじゃん」
「何だか、今その余裕そうな顔を見ると心中穏やかならないわね…」
「ああ、まったくだな」
「なんでそこまで言われなきゃならないんだよっ!」
「あ、その顔こそ陽平の真髄よね〜」
「ああ。やっぱりそれでこそ春原だ」
「少しは成長してください。二人とも」
「ほう…私たちがまったく成長していないと言いたいのか」
「家庭に戻れないようにしてあげようか? 陽平〜」
「ひぃっ!」

 そして、三人笑いあう。
 時が経っても、やっぱりあたしたちはあたしたちで…
 ずっと変わらないものもあるんだと、そう思えた。

(きっと…変わるって言う事に、敏感になりすぎていたのかも知れないわね…)

 そう、変わる事で守れるものもある。
 陽平の場合も、そうやって幸せを掴んだんだ。
 それでも、こうしていれば…やっぱり変わっていないところもたくさんあって…
 何だかちぐはぐな感じが、妙に可笑しかった。


「日帰りなの?」
「ああ。元々突発的に来ただけだからね」
「朋也の見舞いには…行かないの?」
「…ああ」
「仮にも親友だったのだろう? あいつも、待っていると思うぞ?」
「どうだかねぇ…」
「せっかく来たのに、もったいないだろう」
「そうなんだけどさ…。見たくないんだよ。動かないあいつなんて」
「………」
「まぁ、逃げでしかないような気もするけどさ…。
 でも、やっぱり今度会う時はいろいろ話をしたいんだ。
 それが叶うと…僕は信じているから。
 だから、今は会わないでおくよ」
「そう…。それもいいかもね」
「ああ。じゃあ、そろそろ行くよ」
「そう。頑張りなさいよ。仕事も家庭も」
「朋也が目覚めたら…一緒に飲みにでも行けたらいいな」
「そうね。その時はちゃんと時間合わせなさいよ、あんたたち」
「ああ、任せておけ」
「じゃあ…またな。杏。智代」
「元気でね」
「しっかりと奥さんと子供を守るんだぞ」
「ああ。それじゃあ、またな」

 去ってゆく陽平を、二人で見送った。
 その姿が見えなくなると、智代がふぅ…と息をつく。

「にわかに信じがたいな…今更だが」
「あたしだってそうよ…でも」
「…ん?」
「よかったじゃない。あの馬鹿が、大きく成長できるいい機会よ」
「はは…確かにそうだ」
「ええ」
「せめてあいつだけでも…幸せになってくれたらいいな」
「正直、悔しいけどね」
「それはお互い様だ」
「空しい事を自ら言わないでよ…」

 不意に、空を見上げる。
 赤く染まった空の彼方に浮かぶ雲は、とても綺麗で、輝かしい。
 空だけは…いつの時代も変わる事はない。
 だけど、晴れの日もあれば、曇りの日も雨の日もあるように…。
 多彩な変化をも持ち合わせた空。

「………。
 何だか…朋也も…十分幸せ者だと思うわ」
「え…?」

 同じように空を見上げていた智代が、こちらを向く。

「…なぜ、そう思う?」
「だって…これだけ、見守ってくれる人たちがいるもの…」
「………」
「確かに、今は絶望の淵で苦しんでいるのかも知れない…。
 だけど…同じような絶望の中で、同じようにこれだけの人たちに見守ってもらえるなんて…。
 叶わない人も、たくさんいると思うわ…」
「そうだな…。
 でも…あいつ自身が、それに気付いてくれないと意味がない」
「うん…だからこそ…それを教えてあげる存在がいないといけないのよ…」
「…ああ」
「もしも、あたしでよかったら…
 あたしなんかでもよかったら…
 その存在に…なってあげたい」
「ああ…そうしてやってくれ。
 でも…決して、自分ひとりで抱え込まないようにな」
「うん…」

 きっと、みんな同じなんだ。
 自分ひとりが悩んで、もがいている訳じゃない。
 智代も、陽平も、椋も、古河の両親も、公子さんも…
 みんな、朋也の事を見守っているんだ。
 例え、誰にも失ったものをあがなえなくとも…
 見守る事はできるから…
 あたしたちは見守り続ける。
 ずっと、ずっと…
 見守り続ける。



 そして、日は流れる…。
 智代も町を去り、束の間の再会も終わった。
 再び日常の中に身を投じ、時の流れに身を任せる。
 その中でも、変わるもの、変わらないものがあって…
 それに対して時には喜び、時には悲しむ。
 それが、日常の常だった。
 消えていったものも、形を変えてまた生まれてくる。
 悲しみが、新たな喜びを運んでくる。
 連鎖のように、流れていく。
 何もかもが、悪い方向に進むばかりじゃないから…。
 だから、何とかあたしも前向きに生きよう。そう思った。
 俯くばかりじゃなく、ちゃんと笑おう。
 …と。

 …でも、それでも願わずにはいられない。
 もしもあの日に、何かが変わっていたら…と。
 もしくは、変わらなければ…と。
 6年前の渚の死も、去年の汐ちゃんの死も…。
 それがなかったらきっと…もっと楽しくて…。
 こんなにも辛くない、幸せな日々を送れたのだろう、と…。
 心のスクリーンに、そんな幸せな家族の絵が映し出される。
 それは、本当に幸せで…
 泣けてくるほどに、幸せで…
 そして、そのスクリーンが再生を止めてしまうと、あとに残るのはただの現実…。
 その繰り返しだった。
 できる事なら、叶えて欲しかった。
 この映像が、現となってくれる事を…。
 ………。

 そして…

 それを願ったからこそ…

 あたしの日常は…変わってしまった。

 日常…ううん、そうじゃない。
 変わってしまったのは…あたしの存在そのものだった…。
 始まりは、春もたけなわのとある日…。
 それまでは、いつもと何も変わらない…ただ、少しだけ心に喪失感を抱くだけの春の日々だった。
 相変わらず人は人に優しくて、そして苦しい気持ちも共有し合える。
 そんな人たちに囲まれた、温もりに溢れた日々で…。
 そして自分もまた、そんな日々の中を変わりなく歩いていくものだと思っていた。
 ずっと、変わりなく。
 だけど…
 変わってしまった…。

 あたしは繋がってしまったんだ。

 この…町と…。






ヒカリニナル









「忘れないで、あたしの事…」



町は今日も、穏やかな賑わいを見せる。
人と人が心から繋がれる、温かい町。


「杏さん、朋也さんみたいな事をおっしゃる方だな…と思いまして」

「本当はずっと…いつかこんな風に笑える時がくる事を、夢見ていた気がする」



そして…少女は語る。
長い長い眠りの中で、彼女が見た夢を…。


「今は、ただこうしていろんな事に戸惑うだけだ」

「風子も…友達になれたでしょうか?」



変わりゆく時間の中で、ふと振り返る日々。
輝きと陰りに満ちていた時を、遡ってゆく…。


「はいっ、こちらこそ、これからもよろしくお願いします」

「汐と、ボタンと、パパといっしょ」



そして、日常に新たな風が吹く。
その風はやがて、町を、人を…そして自分を導いてゆく。


「それが…人と人が繋がると言う事です」

「…分かりました。お話しします」



過去も未来も、夢も現実も変わらないもの。
それは…頭上に広がる、大いなる空。


「振り返らずにいるには…やっぱり、悟るしかないだろう」

「生きていれば、そのうちいい事あるよ」



決して誰にも渡せなくて、だけど、決して一人では抱えきれないもの。
そんな心は今この時も、町を巡り続けていた。


「いつか、この歌をあいつに届けられる日が来るならば…」

「今は、今守れるものを守りたいんだ」



そして…
今、目の前には…幾多の光。


「お互い…そうやって思いをまっとうしようぜ…」

「これからも…ずっと一緒にいようね」






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ヒカリニナル







続きはDNMLにてお楽しみ下さいm(_ _)m


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管理人:白夢 純(Jun Hakumu)
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